CLANNAD 感動的シナリオのからくり

CLANNAD(というか麻枝シナリオ)の感動というのは、要するに一人称の感動なんだな。つまり主人公が、言い替えるとプレイヤーが泣いたり喜んだりする部分が目一杯強調されている。その裏で何故そういう事態が起こった(起こり得た/起きなければならなかった)のかとか、相手は何を考えてそういう行動を取ったのかとかは、どうでもいいんだ。それに対して自分の求めたのは、どちらかというと三人称の感動。世界が調和して、物語に理由があり、すべてのキャラクターの行動に整合性がある、その上で起こる必然としての悲劇と奇跡。そういうものを求めていたので、この作品で描かれる"奇跡"を受け入れることができなかった。分かってしまえばなんて簡単なこと。どうして今まで気づかなかったんだろう。